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多田 宏(ただ ひろし、1929年12月14日 - )は、日本の武道(合気道)家。合気道九段。昭和4年(1929)12月14日生。東京都出身。早稲田大学第一法学部在学中の昭和25年、植芝道場に入門、合気道を始める。植芝盛平先生、吉祥丸先生に師事。同年、天風会入会、中村天風先生に師事。同年、一九会道場入会、日野正一先生に師事。昭和27年早稲田大学卒業。合気道の稽古と日本武道の歴史研究を専門とする道に進む。合気道本部師範・防衛庁師範を務め、慶應義塾・学習院・早稲田の各大学合気道会設立に尽力、師範となる。昭和39年渡欧し、欧州各国での合気道普及に尽力。イタリア合気会を創設。現在、(公財)合気会本部師範、イタリア合気会主任教授など。また、合気道多田塾を主宰。

聞き手:Fabio GygiとGuillaume Erard。(2016年1月30日・合気道多田塾月窓寺道場にて)

先生の武道との出会いはいつ頃ですか。

小さい頃だね。戦前の日本の人はみんなそう。小学校でやったり。それから、うちは弓が伝わってたから。本式に習うのは、うちで父親に習ってた。うちに立派な巻藁があって。低い所にね。黒塗りに朱塗りで藤のところ巻いてある、父親が子どもの頃使ってた弓を使って、基本を習った。

それは自分の家で?

自分の家。日置流竹林派蕃派っていうんだけど、非常に珍しい流派。対馬では、五百石以上の侍がやってるくらい。だけど、自分の家に巻藁があって矢場があっても、誰も弟子なんかとらない。自分の家の伝えの教養としてやっていた。昔はみんなそう。自分の家に道場があってそこでやる。馬だってそう。ちゃんとした侍だったら自分の家に馬場があってそこでやる。学校に行くわけじゃない。もちろん学校に行くものもあるけど。

その時は東京ですか。

東京の自由が丘。生まれた時は東大の病院で、まだ西片町。父親が東京帝国大学にいた。昭和7年に自由が丘に移って、もう家も広かったけど、当時の自由が丘は田舎。それから、小学校で剣を始めて、学生時代は空手もやって。

空手は松濤館?

松濤館と一般には言ってた。先生はおっしゃらない。松濤というのは船越義珍先生の号だから。松濤って、渋谷に松濤という町があるけど、あれと同じだよ。松が波のようにゆらゆら揺れるのを松濤という。

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船越 義珍(1868年12月23日 - 1957年4月26日)

船越先生とはお会いしてますか。

何回も会っている。船越先生が道場に来られると、帰られる時に送ったことも二回か三回ある。

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前列左から祖父常太郎、祖母カツ、後列左から叔母節子、多田宏、叔母文子。オクズミ写真館にて(昭和20年4月)

合気道の植芝道場に入門するきっかけは?

道場があるのは小学校の三、四年の時から知ってた。「有名な人たちが習っているすごい武道がある」と話に出てた。矢野一郎っていう、第一生命の社長がいるけど、父親がとても親しかった。矢野さんは子どもの時からやって、今の日比谷高校かな、府立一中。一高、東大と行って、実業団の会長なんかもやってた。武徳会の範士でもあった。その矢野さんが、「植芝盛平先生に比べれば、私なんかは赤ん坊みたいなもんだ」と言った。そういう話を聞いていた。

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昭和17年に満州へ行ったとき、その年は満州の建国十周年だったけど、日本中から武道家が集まった。満州の神武殿で、ラストエンペラーの前で大きな演武会があって、その時の植芝先生の演武がすごかったっていうのを(聞いた)。僕も行く予定だったんだけど、母親と姉が話し過ぎちゃって行き損なって、僕のいとこが見た。

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先生は当時何歳だったんですか。

中学校一年。昭和17年。それからが大変なんだよ、戦争なんだから。満州にいた父親が帰ってきたのが戦争終わって2年後くらいだったかな。北朝鮮のちなんぽってところに2年ぐらいいたから。それから38度線超えて帰ってきた。それが終わってしばらく経って、春休みに早稲田の空手部でどういうわけか話が出た。植芝っていうすごい名人がいると。竹下海軍大将がその恩人で、外国の士官を一瞬にして投げたとかね。今ロンドンにいる原田満祐、それからアメリカにいる大島(劼)っていうのも一緒だけど、そういう話してた。それからキャプテンの武田さんっていう人がね、「そういえばうちの親類の人が、植芝先生の武道の本の挿絵を描いた」って言うんだよ。それで、「もし興味あるなら住所を聞いといてやろうか」と。そしたら、若松町102番地。早稲田から歩いてすぐ。今は若松町17-18っていうけどね、元々は102って言ったんだ。

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その時は保証人とかは?

いや、もう戦後だもん。一般的に道場というのは成り立たないくらい少ないんだから。それからそこへ訪ねていって入ることになるわけだ。

先生が稽古を始めた時は、まだ避難してる人たちはいましたか。

いた。三、四年いた。避難してると言っても一家族だよ。八十畳の道場のうち二十畳が仕切ってあって、その二十畳の方に住んでた。

日常の稽古はどんな感じでしたか。

日常の稽古は、月曜から土曜まで。朝6時半から7時半、夕方6時半から7時半。それだけ。あとは自由で、一日中やってても構わない。だって吉祥丸先生は務めておられたんだから。生徒が5、6人しかいないんだから、昔のように財閥が費用払うとか、そういう時代じゃなくなったから。

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その時大先生は?

大先生は、岩間と東京と、旅行と。それを繰り返しておられた。関西の方へ行っては東京に戻って来て、また岩間へ行かれて。それからまた岩間から東京へ出てきて、また関西へ行かれたりして。大阪の吹田、和歌山の田辺、それから新宮の引土(道雄)さんのところね。そういう風に行きました。

もっと公的に人に見せるというのは吉祥丸道主から?

それは吉祥丸道主から。大先生を説得するのに大変だった。

「合気道」という名前は?

私が入ったころはまだない。「合気武道」と言ってた。公式な名前があるわけじゃない。早稲田の学生だった時、早稲田に会を作ろうと思った。それで、植芝道場で先生が始めた講習会を呼んでみようと。でも、広告を貼るには教授の名前がいるから、富木(謙治)さんに頼んだ。それで、「合気武道」と言ったら時代があれだから、「合気道」と。だけど、その前から合気道というのはある。武徳会でやった時に、「合気道」というセクションでやった。

その時の「合気道」はもっと包括的に素手でやるいろいろなものが入ってた?

いや、そんなことはない。植芝先生の合気道と言ってやっていた。だけど昭和17年の満州での演武ではね、僕はいとこからプログラムもらって持ってたんだけど、確か「植芝流合気術」となってた。「植芝流合気術」というのは小説にも出てる。なんか子どもの小説に。

その頃の天竜三郎さんは?

天竜さんは満州で受けをとってる。天竜さんが弟子になったのはそれより何年か前。満州で働いてたわけだから。天竜さんは、大相撲の改革を狙って騒動を起こして、結局失敗して、満鉄の方へ行くわけだ。うちのいとこなんかはとても親しかった。

先生のお話でよく出てくる、大先生のお話がわかりづらいというのは?天風先生についてから…

天風先生についてからわかったのは、伝書を読んだりして、日本の伝統文化の中にあるいろいろな考え方を理解する上において。

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昭和34(1959)年8月、東京護国寺月光殿天風会夏期修練会で、竹斬りを行う多田師範。この竹斬りは現在、多田塾の合宿でも行われている。

それは、植芝先生の話がわかりづらいのとはちょっと違う。植芝先生のお話を理解するのには、(まず)いろいろな日本の伝統的なものの考え方(を理解すること)があって、(そのあたりが)わかりやすくなったと。植芝先生のお話は、元は真言密教。その上に神道、古神道が乗っかってる。そういうのを理解していないとわかりづらい。その神道の話なんかは、僕より八つくらい上だったかな、杉山彦一さんっていう、天風会の先輩がいて。国学院大っていうのは神道教える学校だから。そうすると、先生のお話の意味するところがよくわかるんだと。神さまにも意味があるんだと。いろんなつながりとか。だけど、大まかなところは、感じ取るもの。子どもの時から聞いているいろんな話から、「感じ」は、「なるほど」とすぐわかる。細かい理解はできないけど。
だから天風先生のお話でよくわかったのは、むしろ実行法。なぜこういう実行の方法をするかというと、こういう理合いがあるからだ、というつながりがわかるようになった。これは今でも関係あるよ。西洋のメンタルトレーニングとかメンタルマネージメントも、みんなラージャ・ヨーガとハタ・ヨーガの研究からきてるから。それで、日本の文化というのはインドから中国に行ったものが(入ってきて)。日本の文化の大元は弘法大師なんだから。神道と仏教で、神仏混淆。そうすると、「宇宙と人間のつながりを重視して…」と、ラージャ・ヨーガをやさしく解説していくわけだ。それが日本の仏教、ないしは国の教えになるんだから。天皇家の(保護を)経てね。それが日本中に広がってるから、武道の中には必ず入ってますよ。

日常の稽古の中ではどのように実現できますか?

それは話しだしたら大変だ。一番重要な点は、対象に囚われないということ。「集中」と「執著」の違いだよ。それが一番の問題なんだから。それをやさしくどのようにできるか、というのは日常生活の全部の問題に出てくる。

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それは熟練ということ?

いや、熟練というよりも、生活の中に染み込んでいる。これは非常に難しい問題。全部どんな動作も関係ある。「命の力の高め方と使い方」っていう問題で考えてみればわかる。命の力を高めるっていうことと、命の力を使うっていうこと。(このことに)無縁な人間はいない。生まれてから死ぬまで関係ある。これは難しい問題だ。難しいけども、そこに重点が置かれている。

それは大先生がなさった稽古とか…

大先生はお生まれになったところが紀伊田辺、高野山のふもとで、お家は真言密教。子どもの時からずっとその教えを尊んで、大巡りしてた。それから35歳の時に出口王仁三郎氏にお会いになるわけだ。だけど、先生のお話を聞いてみていると、伝統の中の教えを先生流に理解されて、先生流にそれを突き詰められたんだというのがよくわかる。

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左から多田宏、アンドレ、ノケ、山口清吾。旧植芝道場門前にて(昭和31年頃)

アンドレ・ノケ先生はご存知ですよね。

さっき言ったように、ノケさんが入ってきた時に、僕はいくつくらいかな、二十歳代の半ばかな。ノケさんは四十歳くらいだった。要するに、ノケさんが来る前に、昭和26年だから1951年かな、望月稔さんが、櫻澤如一、櫻澤如一は向こうではジョルジュ・オーサワっていうんだけど、マクロビオティックの。彼の関係で、フランスへ行く。そこから始まる。その次の年に阿部正が行く。それが確か1952年。僕が大学卒業する時で、昭和27年。それでノケさんは、阿部正に習うわけ。

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ノケさんが来てから、いろんなフランス人が来る。フランス大使館も関係する。それで、フランス大使館主催の演武会を植芝道場でやったことがある。写真も残ってる。それは何年かな…また後で年数調べればわかるけど。ノケさんは、ボルドーかな、そこで阿部さんに数年習って、これは素晴らしいということで来たってことが、読売新聞に(出た)。最初は柔道やってて、素晴らしい技が尽きた、というので次の年から数年、阿部正に習って、もっとやってみたいということで日本に来た。それから三、四年いた。

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ノケ先生によれば、多田先生の二教はすごく痛かったという話が…

若かったからね(笑い)。二十歳代だもん。こっちは朝から晩まで稽古してるんだから。勤めてなくて、合気道と日本の武道の関係だけやってたんだから。

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当時はもう四十代?

帰った時は四十四、五じゃないかな。帰ってからは知らないよ。あと、僕は1964年の10月にイタリアに行ったから、1965年に、野呂(昌道)から、来てくれっていうんで行ったことがある。その時、ノケさんが、誰かもう一人の方と一緒に演武を見ていて、あいさつした。

初めて公的な、一般人向けの演武会を始めたのは?

一般向けの演武会を公式に始めたのは高島屋の屋上。どうして高島屋の屋上かって言うと、当時演武会ができるような場所というのはそういう所しかなかった。まだ高い費用で日比谷公会堂を借りるとかもできない時代だった。その他には、三越でやったり渋谷の東急の屋上でやったりして。それから美容学校の講堂借りたり、新聞社の講堂借りたり、いろんな所でやった。合気会が正式に第一回と決めたのはどこだったかな。記録見ればわかるけど。

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大先生は演武会を嫌ったという話がありますが。

一般に公開するのは躊躇われた。元々は公開しないんだから。大東流の武田惣角先生も公開しなかった。昔の武道家はそうですよ。特定の人にしか教えない。閉め切って。昔は「御留技」って言ったくらいだから。御留技っていうのは、一つの藩から外に出さないこと。それはそうだろう。昔は技術をよその人間に教えたら自分が不利になるんだから。それからもう一つは、あんまり広がると崩れるから。だから特別な人間だけが大事に大事に(伝える)。

先生は合気道を専門にするという決意は?

職業じゃない。そこが難しいところだ。職業じゃないけども、これはすごいから研究すると。そういうところ。昔の武道は、家に弓が伝わってたけど、弟子なんかとらない。一生ずっとやっていく家老の職業があるんだから。侍としての。合気道で生活費を得るとかそういう発想じゃない。とにかく研究するっていう。
それで、ノケさんは、ノケさんがいる間に演武会とかそういうのをやった。覚えてるのは、帰る時に、あの当時はまだ横浜から船で発つんだけど、確かアメリカの船で帰ったと思うけど、船で見送りに行った。

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話は変わりますが、合気道における武器、杖と木剣の稽古はどれくらい必要ですか。合気道の世界では議論されていますけど。

基本の体術をよくやってれば自然に使えるようになるというのが大体、合気道だけじゃなく、日本の伝統的な武道のやり方。「柔術は全ての武術の母体なり」っていうんですよ。だから、体の使い方、技を丁寧によくやっておけば、剣を持てば剣になるし、槍を持っても、長刀を持っても、杖を持っても、なんでも使えるんだと。それから、呼吸やタイミングや、鎖鎌や、だから武芸十八般全部使える。使えるのが当たり前。特別に習うわけじゃない。もちろん、剣を使うには剣に慣れなきゃいけないし、剣の特徴を、切れるもんなんだから(知らなければいけない)。槍だったら槍の特徴を自在に使える。長刀だったら長刀、そういう必要はあるよ。だけど、合気道だから杖をやらないとか剣をやらないとか、それはおかしい。なんでも使えるようになるのが本当なんだ。そういう使い方。
合気道だけじゃない。本にちょっと書いたけど、明治時代に小学校中学校の校長先生が、子どものために武術体操というものを作った。要するに、普通の体操だけじゃなくて、日本に武術があるんだからと。その武術体操をよくやれば、剣も槍も長刀も、棒も使えるんだと。学校の先生だよ。子どもたちにやらしたんだ。そういうもんだよ。だから合気道も、技をよくやれば、使い方が正しければ合気剣になるし、合気の槍になるし、合気の長刀になるし、合気の杖になる。あるいは、ものを投げれば合気の投げ方になるし。呼吸がね。そういうもんだよ。

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渡辺一郎「明治武道史」

現代の柔道や剣道を見ていてもこういう発想は出ない。どうしてかというと、現代の柔道や剣道っていうものは一つのルールのもとに競い合う体系になっている。だから他のことは考えない。柔道には柔道のルールがあって、ルールに従ったテクニックやものの考え方になる。現代の柔道や剣道を見ていると、剣も剣道とか長刀とか、全部別のものになる。でもそれは違う。

歴史的なものの考え方と発想が違うんだ。だから本当は合気道で、剣もできれば、槍もできれば、長刀もできる、それが当たり前。それは時間が要るよ。そういうものに慣れなきゃいけないから。ただみんなやらないだけだ。やらなきゃできない。例えば四方投げでバッっとやってバッとやればちゃんと四方切りになるし、杖でもなるし、槍でもやれば四方突きになるんだから。工夫次第だ。大先生はしょっちゅうやってた。

それはやはり一人稽古?

一人稽古と、あとはそういうものの使い方に慣れる必要はある。だけど、根本の考え方がある。ものを同化的に考えるか、分離的・対立的に考えるかっていうのが基本的にあって。それがわからないとその問題は解けない。

大先生の場合は一人稽古が多かった?

大先生は綾部の林の中で、鞠を八方位に吊って、それを三間槍で毎日朝から晩まで突いて、自在になったというんだ。それで、大先生が竹下大将の紹介で綾部から東京へおいでになった時、山本権兵衛、山本権兵衛というのは日露戦争の時の海軍大臣で、そのあと総理大臣になった人だけど、大先生の槍を見て、「明治維新以来初めて生きている槍を見た」といって褒めた。

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大先生自身も、槍には自信があると。60キロの俵を積み替えるくらいお茶の子さいさいだ、と言っておられた。だから、合気道の技をよくやったとすると、一つの技の動きや流れを剣や杖で表してみたいと思ったら、一生懸命やればできるようになる。やらなきゃできないけど。

一人稽古と二人で組む稽古はどちらが重要ですか?

それは一人で動くのに決まっている。一人で動けなきゃ二人でできない。相手がこういう風にかかってきたらこうやると、そういうのがたまにあるけど違う。一番の法則は、自分の心と体の使い方を基本的にやる、ということ。そうすればどんなものにも対応できると。そういう根本の発想がないとわからない。自分の心と体を自由に使えないでいて、どうして二人で(できるのか)。臨場的な稽古っていうんだけど、相手がこうやってきたらこうやる、こうやってきたらこうやるっていうのは、一種の応用。お医者さんで言えば手術と同じ。基本的な技術を持っていない人は手術はできない。自分の心と体の使い方をよくやるんだと。そうすれば技は自然に生まれる。それが伝統的な考え方。剣術だって、剣の使い方ではあるけれど、詰まるところは心と体の使い方なんだと。それをよく弁えて鍛えろというのが、伝書に書かれている教え。

本部の方ではあまり気の話とかはしないんですか。

それは自分でよく研究する。こういうものは、「自分の命の力の使い方だから自分で研究しろ」というのが昔から(言われている)。一つあるのは、子どもの時からそういう話を聞いていないと難しい。例えば弓だったら、なぜ当たる当たらないに囚われなきゃいけないか。なぜ淡々とやるか。それは、要するに自分の心と体の使い方。そういうものに興味がないとできない。教えたらできるってものじゃない。
一つは、気の流れ。大先生の稽古っていうのは、「気の流れと鍛錬であります」っていうんだけど、一番最初に書かれたのは昭和25年の『合気会誌』。今は『合気神髄』っていう本の中に書かれてる。「合気道の稽古法は、気の流れと鍛錬であります」と。

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鍛錬っていうのは、こう。ところがこれでは技にはならない。なぜかというと、こうだからいいけど、ポーンと首が飛んじゃってから何かやったって。がっちり持たせても動じないということ。がっちり持たせても、気持ちが対象に囚われないで動ける。気の流れっていうのは、もっと複雑。一つの技の手順を覚える。すると、三角でも、あるいはこう。角がこういう風になってたら、こうなっていく。すると、これはもう理合い的には円と同じ。そうすると、ぐーっと、流れが出る。体の流れが。そこへ呼吸、外国人はプラーナヤーマっていうけど、止気の法だよ。要するに、気の流れの練磨っていうのは、生命エネルギーの流れの練磨っていう意味だ。それを技とはまた別に、合気道じゃなくてね。(たとえば)病を治したいって人は、生命エネルギーをこう、これは気の流れの練磨。そうやって技と生命エネルギーの流れを同化してやっていく。現代的にやさしく言えば、大先生は気の流れの練磨でございますと言った。(気の流れという言葉は)文書に出てるから。ただ、気の流れと言っても、気という言葉を一生懸命研究しているだけじゃわからない。それは、どういう世界観とか宇宙観に…いわゆる日本的なものっていうのは東洋的なものだよね。インドや中国や、日本の神道でも、どういう風に流れているかっていうのをよく(探究)していないと。だけど、独自のもので他は関係ないってもんではない。別の形でヨーロッパやアメリカには広がってる。

大先生がお書きになった『武道練習』という本は…

持ってるよ。何冊もある。ガリ版のもある。戦後のガリ版のは、ちょっと違ってるけど。あれは何年くらいかな、昭和20年代の終わりくらいかな、その頃の大先生のとは違う。前のガリ版のもコピーしてるけど。ちょっとこれは困るな、あれはほとんど大先生に無関係で印刷したから。

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大先生は本を書くということを(どう考えていた)?

大先生は、本を書くといわれてってやってたけど、どんどんどんどん変わってくるんだから。それは難しいだろう。同じなら書けるけど、変わっちゃってるんだから。そんな古い時のことを書いて何になるってさ。書こうとしたらどんどん新しく変わっていくんじゃ、書けないと思う。

先生はよく「合気道は現代に生きる武道」とおっしゃっていますが。

現代に生きる武道っていうのは、吉祥丸道主が言ってた。「私の父、植芝盛平の目指すところは、現代に生きる武道である」と。それは、どういう意味かはわからないよ。説明していないから。僕らなりにこうなんじゃないかってことは考えるけど、吉祥丸先生や植芝先生がどういう意味でそれを言われたのかっていうことはわからない。

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先生ご自身はどう考えていますか。

心と体の法則を中心にして、武道という非常に細かいところ、生命のぎりぎりのところで生まれたような技術。そういう技術を通じて、人間の生命と心、あるいは心と体を、どのように現代社会にプラスにしていくか。破壊ではなくしてプラスにしていくか。そういうことを示しているんだろうと思っている。だって、「武術の根源は愛であります」っていうのも、ただ愛って言っても、我々が普段言ってる愛じゃない。宇宙の愛だ。

先生ご自身の合気道はどのように変化してきたと考えていますか。

最初、学生時代は、一生懸命やってると。だけど、大先生や天風先生の話を聞いていると、そういうのに沿って、自分では気が付かなくても…やっぱり若い時は、したり、ガッとやったり、いわゆる戦いの技術としてのものをやってる。大体、日本の武道は「道」って付いた時点で実践から離れるのが原則。ところが明治から後、外国との戦争が出てきたりして、社会が「戦う」という技術の方と切り離してものを考えたりすることができない時代になった。そこでちょっとややこしい(ことになった)。社会的な活動と、大先生がなさっていたようなこととズレが出てくる。そこが難しいところ。特に昭和の時代から。

「極意にかぶれる」という言葉がありますが。

それは昔から言われていること。例えば、私の父親が弓を始めた時に、曾祖父が…曾祖父が生まれたのは侍の時代だから、馬術と弓が上手かったんだが、父親が曾祖父に習い始める時に、二つのことを言った。「他人の技を批判してはいけない」。それから、「弓に関する本を読んではいけない」。そう言ったという。迷いが生じるから。こっちの先生はこう言っている。こっちの先生は全然違うことを言っている。そういうものの中で一番いいものを選ぶというのは、一番上達しない方法。寄木細工になると。ものをちゃんと習うには師匠の言った通りにやってそれ通りにまずなれるようにしなきゃいけない。それで、往々にして本には非常に上等なことが書いてある。
合気道にもよくある。足元を見ないで上ばかり(見て)、上等なのを空真似する。できないのに。そういうのを「極意にかぶれる」と言う。合気道なんか結構多いんだよ。

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現代に行われている合気道の稽古はどう変化してきたでしょうか。

それは、人によって違うから何とも言えない。こういうものは芸術と同じ。日本語では武道のことを芸術って言うんだ。ただ明治維新の時に「arts」って言葉が入ってきた時に、言葉がないから「芸術」とあてはめたけど、日本語の芸術っていうのは元々は剣術を意味するんだ。だから『天狗芸術論』。文部省の大きな教育体系であるとか、スポーツ化した方がいいとか、スポーツ化したら変わるとか、そういうのはその人の考え方による。難しいのは事実。どうしてかというと、だんだんみんなが一斉に同じことをやったりして、独特の働きをする人間が少なくなってくる。もう一つは、一番難しいのは、武術を実用として使う時代じゃないってことだ。これは、警察官が逮捕術をやるとか、軍隊の人間が実践でやるとか、そういうのはあるけど、一般人が教育として、そういうものを常識として持つ時代じゃなくなってる。あまり大切だと思わなくたって(よくなっている)。だけど、本当は、何か一つアーツ、芸術を訓練してる方がいい。それは踊りだっていいし、絵だっていいし、音楽だっていいし、何か自分の心と体を使って一つの芸術を表すような訓練をみんなしてる方がいい。それは確かだ。だから、護身術であるとか、警察官の職業上の逮捕術とか、自衛官は格闘術やるかもしれないけど、そういうものとはまた別にして、日本の伝統的な技術として(やる方がいい)。なぜかっていうと、感覚を磨く。ものの考え方を磨く。そこでなぜかっていう問題が出てくる。「集中」と「執著」はどう違うか。最大の問題だ。

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天狗芸術論

それを乗り越えるために?

乗り越える、っていうか、技術を学んでると、無意識のうちに「集中」と「執著」は違うっていうことが、一生懸命やれば、感じとれるようになる。例えば、(私は)86(歳)だけど、仲間はみんな、病とか、怪我とか、子どもが先に死んでしまったとか、結構ある。そうすると、心のあり方と使い方…例えば「執着」っていうのはわかる?「集中」と「執着」の違い。

「執著」は対象に囚われている、「集中」は鏡のように感覚をコントロールする?

それが、荘子が「至人の心を使うこと鏡の如し」って(言ったこと)。今から三千年前なんだから。人間の三千年の歴史の中で一番重要な問題だってことは間違いない。そこから、なぜこうなるとこっちへこう移るのか。執著ってのは、心がこう、動かない。集中っていうのは、こっちへ鏡のようにこう映るから、自由にこういう風にできるわけだ。もしこれが病だったら、病を治すのにこうやって非常に心に疲労が生じるし難しい状態になる。そういう問題も出てくる。それで、なんで世の中が大変なことになってるかというと、大体これが原因。全部。大は戦争から、世界中で起きている動乱から、個人の小さな問題に至るまで、みんなこれが原因だ。そういうことを考えればすごく重要。だけど、これは難しい問題で、教えたらできるって問題じゃない。理屈がわかったらできるって問題じゃない。

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自分で研究しなければならない?

それをどういう風に尋ねて行くかっていうのが非常に重要なところ。

今日はどうもありがとうございました。 


erard文◎エラール ・ ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い 、合気道道主植芝守央から五段、大東流合気柔術四国本部千葉紹隆師範から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。

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