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私がアンドレ・ノケの名を知ったのは、合気道を知ったのとほぼ同じぐらいのタイミングだった。私の最初の師であるミシェル・デロシュの道場を訪れた時、最初に見たものが、ノケが日本人の老人の前に立っている写真だったのだ。

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岩間にて、ノケと植芝盛平。私の最初の師のオフィスに飾られていた。

たまたま私は、アンドレ・ノケの連盟で合気道を始めたので、彼の人生における素晴らしい話や、大先生と稽古するために日本に渡った冒険譚を聞いていた。そうした途方もない話は、少年だった私に強い印象を与え、いつか彼のように日本の先生方と稽古するため日本に行きたいと夢見るようになった。
私は、合気道の歴史家として仕事を始めたことで、様々なインタビューやプロジェクトの中で、できる限りノケの情報を集めることに腐心したてきた。これまで多くの記事で彼のことを書いてきたこともあり、それらを「ノケ伝」としてまとめ、ようやく『秘伝』先月号に日本語で掲載することができた。
私のそうした努力は、フランク・ド・クレーヌとクロード・デュシェンといったノケに最も近い弟子をはじめ、多くの人々から認めていただいた。私は彼らから面会を求められ、ノケの私的な遺品の管理人になって欲しいと頼まれた。遺品は、日記や手紙、映像フィルム、写真、木刀など膨大な量である。植芝盛平からノケに贈られたという稽古着も託された。シリーズ2回目は、この稽古着に関する発見などをご紹介したい。

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植芝盛平からアンドレ・ノケに贈られた稽古着

ノケ先生はセミナーの中で、大先生からこの稽古着を贈られたときの言葉を、次のように語ったものだった。
「私の汗が染み込んだこの稽古着を持って行きなさい。これから欧州合気道の発展を担うあなたは、これを着て精進しなさい。我々の汗がこの稽古着の上で入り混じり合うのだ」
実は、この稽古着に関する話の真相は誰も知るものがおらず、管理人となった私は、日本に返すべきだと決めた。この稽古着を、まだご存命の大先生の最後の弟子の方々をはじめとする見識ある方々に見ていただいたら、何か発見があるかもしれないと考えたのだ。
経年にもかかわらず、稽古着は非常に良い状態で残されているが、使用頻度が高かったことは間違いない。糸の色合いの違いから分かるが、長年に渡って継当てしながら着用されていたのだろう。果たしてこの継当ては大先生が使い込んで当てられたものなのか、ノケの手に渡ってから継当てされたものなのかよく分からない。継ぎの中には、稽古着と同様くたくたになっているものもあり、だいぶ前に手当てされたものだと思われる。特に、補強された襟の部分が興味深い。襟部に継当てされた箇所は、襟の縁にあり、ちょうど刺繍にやや被って当てられているため、後年継当てられたことが分かる。当初私は、大先生が着用した際に日本で継ぎが当てられたものと考えていたが、ノケがこの稽古着を着用している写真を見ると、その継当てが見当たらないのだ。この補修は、ノケがフランスに戻ってからなされたものであろう。

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フランスで教えるノケ。大先生から贈られた稽古着を着用している。

布について

私が最初にこの稽古着を見せた人物は、株式会社星道の社長、ジョルディ・ドゥラジュだった。彼は世界でも有名な日本の武道具の専門家の一人である。この稽古着の構造と、どのように作られたかについて、彼は非常に興味深い情報を与えてくれた。稽古着自体は、通常の柔道着と同様に作られている。上部は刺し子、下側は菱刺しであるが、これらは一枚の綿の布に施されているので、手刺しで作られたものだと推測される。

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ジョルディはまた、この稽古着は明らかに手製であり、素晴らしい技術を持った人が作ったはずだと付け加えた。手刺しの素晴らしさと刺繍から、かなり高価なものだと彼は推測した。しかしながら、この稽古着の形は少し珍しく、これを作った人は武道の稽古着を作るのに慣れていなかったのではないかとも言った。例えば、下襟の部分は、きちんと合わせるのに十分な余裕がない。特に、肩幅が広い人が着用すると、前を合わせるのが困難だろう。

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ジョルディ・ドゥラジュ

岩田商会は1956年頃から、合気道に特化した稽古着を初めて製造した会社である。しかし、北海道の博物館で展示されている大先生のために作られた稽古着と比べ、私の手元にある稽古着は全く違うやり方で作られているのが明らかであり、ジョルディの言うように誰か別の人が作った稽古着ではないかと思うようになった。この稽古着にはラベルやブランドのタグなどは一切付いていない。

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刺繍

稽古着の襟には、7文字の刺繍が施されている。隙間のない非常に高品質の刺繍である。ジョルディによれば、この刺繍は縫い目の後ろにされており、つまり稽古着の製作過程で施されたもので、完成品に刺繍したものではないという。

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左は、継ぎが当てられた稽古着の襟の写真である。刺繍の上に縫い目の線があるのに注目していただきたい。右は、フランスに帰ったノケが稽古着を着用しているクローズアップ写真である。

当初私は、この襟に施された刺繍の最後の文字に関し、この稽古着を作って大先生に差し上げた人物が施した昔の敬称か何かだと考えた。しかし、同じような文字を手持ちの本のどこにも見つけることが出来なかった。ところが、研究者仲間のバティスト・タヴェルニエが、それは大先生の花押ではないかと指摘してくれたことから、大先生の書を調べたところ、同じ文字をいくつかの書物の中に見つけることが出来た。落款の代わりに使われていたのだ。

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左:稽古着に刺繍された最後の文字。右:花押を含む大先生の書。

この発見は、それまでの自分の仮説の反証となってしまった。この稽古着が大先生への贈り物だったという仮説は事実上不可能になった。むしろその逆である。大先生がてずからこの稽古着を作ったか(到底そうは思えないが)、または誰かに作らせ花押を付けたか。より重要なことは、大先生が日常的に自分の花押が付いた稽古着を着ていたとは考えにくい。実際、大先生が刺繍の入った稽古着を着ている写真を私は見たことがない。そうして私はノケの話を疑うようになった。

結びに…

私は、多田宏師範に問い合わせることにした。多田師範とは、過去に何度か合気道の歴史やノケについて話をしたことがあったからだ。

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本部道場前にて、アンドレ・ノケと多田宏、山口清吾(1957年)

多田師範はこの稽古着を見たことがあるかどうか思い出せなかったが、師範曰く、大先生が阿部醒石先生に書道を習い始めた時、扇子や木刀などの個人の持ち物にサインして欲しいと頼まれていたそうだ。稽古着ももしかしたらそうした物の中の一つかもしれない。しかし、多田師範は、ノケが自分のためにこの稽古着を作り、大先生の名前を刺繍した可能性が高いと考えているようだ。
私は、もう一人の同年代の先生にも話を聞いてみようと思った。小平に赴き、小林保雄先生にこの稽古着を見てもらったのだ。先生もやはりこの稽古着を見たことがなかったが、すぐにこれが手作りのものだと認識された。稽古着などが大量生産される前は、手作りが一般的だったという。その場に同席していたミハリ・ドブロカが、かつて贈り物をより心の通ったものにするため、贈り手が一旦稽古着を使用してからそれを贈り物にする習慣があったのではと示唆した。小林先生は、確かにそういう習慣があったと仰って、この稽古着はその習慣を踏襲したものと考えられるとのことだった。小林先生によれば、この稽古着はかなり大きく、大先生のためのものとは考えにくい。大先生の身長は150センチほどだったのだから。

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稽古着を改める小林保雄先生と筆者

前述の人々の助力のお陰で、この非常に価値のある遺品をノケが受け取った状況が明確になった。おそらく、大先生が誰かに縫わせたこの稽古着は、製作過程で名前と花押を刺繍で入れてある。大先生は象徴的に一度これに袖を通してから、フランスに帰国する前のノケに贈ったのだろう。フランスでは多くの人々がこの稽古着を目にしており、多くの継ぎが当てられていることから、ノケはその稽古着を頻繁に着用していたようだ。
より重要なことは、この稽古着はフランスと日本の友情の象徴であり、日本の武道に対するフランス人の深い関心を表している。合気道は、大先生によって創始され、彼の息子である吉祥丸に受け継がれ、日本および外国の多くのパイオニアたちによって開拓されてきた。私は、その稽古を通じて育まれたフランスと日本の強い絆が、これからも発展していくことを願っている。


erard文◎エラール ・ ギヨーム
フランス出身、科学者(分子生物学の博士号)および教育者であり、日本の永住者。東京の合気会本部道場で稽古を行い 、合気道道主植芝守央から五段、大東流合気柔術四国本部千葉紹隆師範から五段と教師の免状を授与される。フルコンタクト空手も練習している。自身の「横浜合気道場」で合気道を教えており、定期的にヨーロッパを訪れ、合気道や大東流のセミナー、武道の歴史についての講義を行っている。

翻訳:三上尚子

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