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総伝:大東流合気柔術の秘書

大東流合気柔術は古代にさかのぼる武術であるが、他の旧派(古流)と違い残念なことに文書化が乏しかった。 それにもかかわらず、大東流とそれらの流派に共通するの一つの点が技の拡散に関する秘密主義方針、1800年代後半に武田惣角が大東流合気柔術を広く普及させるまでの方針である。しかし実際にカリキュラムが標準化されたのは彼の息子の時宗(武田時宗)が引き継いてからだった。 にもかかわらず、技術進歩の複雑な性質とその習得にかかる莫大な時間により、この術の極意を知る者は数少ない。そのため、118に満たないほどの技を収録する秘伝目録に収録されていないレベルの高度な技が語られている文章は比較的少ない。

多田宏師範に聞く

多田 宏(ただ ひろし、1929年12月14日 - )は、日本の武道(合気道)家。合気道九段。昭和4年(1929)12月14日生。東京都出身。早稲田大学第一法学部在学中の昭和25年、植芝道場に入門、合気道を始める。植芝盛平先生、吉祥丸先生に師事。同年、天風会入会、中村天風先生に師事。同年、一九会道場入会、日野正一先生に師事。昭和27年早稲田大学卒業。合気道の稽古と日本武道の歴史研究を専門とする道に進む。合気道本部師範・防衛庁師範を務め、慶應義塾・学習院・早稲田の各大学合気道会設立に尽力、師範となる。昭和39年渡欧し、欧州各国での合気道普及に尽力。イタリア合気会を創設。現在、(公財)合気会本部師範、イタリア合気会主任教授など。また、合気道多田塾を主宰。

アンドレ・ノケ伝記 第3回:アンドレノケの日記

私は『秘伝』2020年4月号に、1955年6月から1957年10月の期間、外国人として初めて植芝盛平先生の内弟子となったアンドレ・ノケの人生について記事を書いた。ノケは1999年に亡くなったが、彼は愛弟子であったフランク・ド・クレーヌ氏に遺品の管理を託した。その後、ド ・クレーヌ氏は亡くなる直前に、彼の後を引き継ぐ管理人として私を指名したのだ。私はその依頼を引き受け、注意深く慎重に遺品を調べてきた。本稿では、日本滞在中のノケが記した日記の部分部分を取り上げてご紹介したい。ノケの考えていたこと、その大志や、人間が誰しも心に抱える矛盾など、読者には様々な発見があると思う。パイオニアであるノケの心を覗くという以上に、この日記は、今日欧米で合気道がどのように理解されているかを知る鍵となるだろう。

アンドレ・ノケ伝記 第1回:合気会初の外国人内弟子の功績

合気道と、その原型となった大東流合気術の違いは、技術よりもむしろその哲学にあると言えます。最も注目すべきことは、合気道には普遍主義への貢献という理念があり、それはおそらく出口王仁三郎が植芝 盛平に与えた影響の結果であると考えられます。1948年の設立以来、公益財団法人合気会はこの理想を積極的に追求し、国内外のさまざまなメディアを通じて、合気道のメッセージと技術カリキュラムを伝え、振興に注力してきた結果、合気道は世界中に知られることになりました。1955年、植芝吉祥丸のもと、本部道場は初めて外国人のために門戸を開き、フランス人のアンドレ・ノケ氏を最初の外国人の内弟子として迎えました。3年後にフランスに帰国したノケは、同地での合気道の発展に重要な役割を果たすわけですが、あまり知られていない事実といえば、日本での合気道の発展にもノケの貢献は大きかったということです。最近私は、彼の個人的なアーカイヴの管理人になったこともあり、今回の連載でアンドレ・ノケ氏を日本の読者に紹介し、これまで公開されなかった書類なども開示したいと思います。

なぜ有段者は袴を着用するのか?

袴の歴史

袴は着物の上から履く日本の伝統的な装いであり、社会的に地位の高い男性が着用してきた。学説によれば袴の起源は平安時代(794-1185)に遡り、興りは宮中の女性が着用し衣服が現在の袴の形と酷似していたとされる。平安時代後期になると男性は狩衣(平安時代以降の公家の普段着)と水干(男性の平安装束の一つ)を着用しはじめた。狩衣も水干もスカートのような形状をした着衣であった。鎌倉時代(1185-1332)の初期頃には騎馬戦を行う武士階級の男が袴を着用するのが一般的になった。その頃から袴は上級士族の中では流行りはじめ、様々な形、スタイル、色、素材のものが生まれた。さらに袴の折り目の数も多様なものが存在したのである。次第に袴は足軽などの下級武士の間でも着用されるようになり、また学者や商人にまで普及していった。野外で活動する人々は主に細身の襠有袴を着用していたといわれている。

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